そこから先は、Originalな道をたどられているようですネ。 洋楽のロック・ポップスが最も盛り上がっていたと思う年代を聞いたところ、全ての世代で「1980年代」がトップとなりました。リアルタイムで経験した40代・50代はもちろん、それに続いて20代から多く支持されるなど、今なお色あせない音楽の宝庫の時代だったと考えられます。  Let's enjoy music forever ♪♪, グランダックフローリスト様 ご感想ありがとうございます。 Fleetwood Mac、Scott Mackengy、Michael Francs、Michael Jacson、Eeagles、Lettermen. 聞きたくて、大阪厚生年金会館へも行ったりしてた。 好きなアーティストを挙げだしたらキリがない…というのも皆同感です。 3位の「Bon Jovi(ボン・ジョヴィ)」は40代・50代の強い人気、4位の「Queen(クイーン)」は、全世代を通して比較的高い支持を集めたため、このような結果になったと思われます。, ■報道関係者様からのお問い合わせ窓口■ S&Gの来日、全て行ったんですか!? 1961年~1970年の洋楽ビルボード年間シングルランキング「Billboard Year-End Hot 100」から各年代の上位10曲をご紹介します。. 音楽の趣味が合う…というのは世界共通のステキな魔法ですネ!   ☆音楽の楽しみ方は無限☆  何よりも癒してくれる親友だ。, head1192 様 1960年代~1970年代から活動している(活動していた)洋楽ロックバンドで、あなたが好きなロックバンドをお答えください。(複数回答) 4位 Georgy Porgy. ・調査時期:2019年11月 ABBA、Arabesque、Shakatak、Brigitte Fontene、Queen、Deep Purple、Susie Quatro あなたが好きな洋楽ロックバンドをお答えください。(複数回答) ☆貴方が書き添えて下さったアーティスト達も、もち既に殿堂入りしてますよ☆ (全体:n=383、20代:n=141、30代:n=142、40代・50代:n=100), 1960年代~1970年代から活動している(活動していた)洋楽ロックバンドで好きなバンドは、「The Beatles(ザ・ビートルズ)」がトップとなり、続いて「Queen(クイーン)」「Aerosmith(エアロスミス)」となりました。 聞いて、エアチェックしてたなぁ。  「Rolling Stone's 100 Greatest Artists」  超えて、世界中の人々を、永久にとりこにしてしまうんですものネ☆ ③加入したいバンド「The Beatles(ザ・ビートルズ)」「Maroon5(マルーン5)」!, 【調査概要】  ピンクフロイド、キングクリムゾン、ジェネシスとかも当時の 1位.スティーヴィー・ワンダー (Stevie Wonder) 2位.カーペンターズ (Carpenters) 3位.クイーン (Queen) 4位.エアロスミス (Aerosmith) 5位.マイケル・ジャクソン (Michael Jackson) 6位.ビートルズ (The Beatles) 7位.Earth, wind and fire. 「1990年代」は、「オルタナティヴ・ロックやグランジのムーブメントがあった」「ブリットポップが流行した」「ジャンルがクロスオーバーして、新たな音楽やバンドが数多く生まれた」等の意見が寄せられ、ジャンルが多様化し、刺激的な音楽が多かったという感想が多くありました。, Q. 加入したいバンドのトップは「The Beatles」、続いて「Maroon5」となりました。「Maroon5」は特に女性に人気が高く、ボーカルの「最もセクシーな男」アダム・レヴィーンが人気の結果に反映されているようです。, 【調査対象のバンド】 1980年代~1990年代から活動している(活動していた)洋楽ロックバンドで、あなたが好きなロックバンドをお答えください。(複数回答) (全体:n=383、20代:n=141、30代:n=142、40代・50代:n=100), 1980年代~1990年代から活動している(活動していた)洋楽ロックバンドで好きなバンドは、「Red Hot Chili Peppers(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)」がトップ、続いて「Bon Jovi(ボン・ジョヴィ)」「Nirvana(ニルヴァーナ)」となりました。 当時、ラジオから流れて来た Saturday in the park でした。  シカゴはMagical mistery tour をOpeningで!? また気になるアーティストや、いち推しの曲があればコメントUPを!, ※各種外部サービスのアカウントをお持ちの方はこちらから簡単に登録できます。  BayCityRollers カッコ可愛い少年達の来日。SaturdayNight懐かし-! あなたが加入したいロックバンドをお答えください。(複数回答) どこかで聞いたことがある60年代の洋楽ミュージシャンを有名だと思われる順に並べてまとめてみました。売れた曲や,テレビ,ラジオ,cm,番組で扱われた曲ほど上の方に表示しております。代表曲,ヒット曲,定番曲,名曲,ヒットソング,おすすめ,一番ソング,人気曲まとめサイト。 1位 Rosanna Simon & Garfunkel、Elton John、Led Zepperin、T・REX、Gilbert O'sulivan、Bread、Cream. Def Leopard…∞。  ご指摘ありましたRoxy Music、ChicagoやCamelも好き。 世代別で見ていると、40代・50代は、他の年代と異なり、「The Rolling Stones(ザ・ローリング・ストーンズ)」が高くなっているのは興味深い点です。加入したい理由は「ロックレジェンドだから」「ギターを弾かずにステージに立ったままでも大丈夫そう」等となっており、40代・50代は楽曲だけではなくバンドの存在感にも魅力を感じているようです。, Q. (全体:n=383、20代:n=141、30代:n=142、40代・50代:n=100), “洋楽のロック・ポップスが、最も盛り上がっていた”と思う年代を聞いたところ、「1980年代」がトップとなり、次に「1970年代」「1990年代」となりました。 1970年代の洋楽のヒット曲なのですが、曲名とアーティスト名が思い出せません。おわかりの方、是非、お教えください。Have you ever heard a lonely church bell ring ?Have you ever learned a crying angel sing ?From the distance, f  いいですね!私もシカゴ大好きです。彼等との出会いは (全体:n=383、20代:n=141、30代:n=142、40代・50代:n=100), 回答者全員にどのような点が洋楽のロック・ポップスの魅力と思うかを聞いたところ、「メロディーが良い」がトップとなりました。続いて「演奏技術のレベルが高い」「迫力がある」となっています。世代別にみると20代は「メロディーが良い」が他の年代よりも高くなっている一方で40代・50代は「演奏技術のレベルが高い」「演奏者が魅力的である」「楽器(ギター・ベース・ドラムなど)の音が良い」が他の世代よりも高くなっています。 また、40代・50代で「1980年代」の割合が高くなっているのは、リアルタイムで音楽を聞いていた影響が大きいと思われます。 ②好きなバンドのトップ3は「The Beatles(ザ・ビートルズ)」「Queen(クイーン)」「Red Hot Chili Peppers(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)」!女性は「Maroon5(マルーン5)」を支持! 僕は60年代のオールディーズから80年代の洋楽が好きです。. ような気がします。 音楽ファンの基本ルートを辿る様子が、すごく楽しそうで目に浮かぶ 1960年代~1970年代から活動している(活動していた)洋楽ロックバンドで、あなたが加入したいロックバンドをお答えください。(複数回答) ・ビルボード年間チャートインアーティスト 言葉は解らなくとも全然OKというのも、音楽の普遍的な力・魅力。  あの頃、数え切れない程の素晴らしいミュージシャン達が Fleetwood Mac、Scott Mackengy、Michael Francs、Michael Jacson、Eeagles、Lettermen 2000年代〜2010年代から活動している(活動していた)洋楽ロックバンドで、あなたが加入したいロックバンドをお答えください。(複数回答) 8位.ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) 9位.ダイアナ・ロス … 1970年代の日本のロックの状況を説明するのに5章から8章と4章を費やしました。それが終わり今回はいよいよ80年代に突入します。現在、日本で一般に「洋楽黄金時代」などとも言われる80年代ではありますが、果たしてそれは正しいのか。なぜそう言われるのか、この章で検証したいと思います。, ウォークマンが変えた音楽環境 80年代に入ると、日本の音楽リスニングで一つの革命が起こります。その一つがウォークマンの登場です。1979年に発売されたウォークマンは、音源をカセットテープに落として、歩いていても音楽を聞けるようにすることで、音楽を部屋から屋外に出すことになります。これまでの、ラジオやステレオを中心とした聞き方が大きく変わることになり、音楽が生活により密着したものへとなっていきます。, ウォークマンの登場は音楽のインフラの構造変革をもたらします。まず、カセットテープの需要を促進させますが、そこでソニーやTDK、日立マクセルなどのメーカーが高磁気カセットテープの開発に成功し、リスナーの必需品になります。, そのカセットテープの需要に合わせ、二つの音楽勢力が台頭します。一つが貸レコード店、そしてもう一つがFMでした。貸レコード店は、1980年に東京の三鷹で始まった「黎紅堂」が一般に最初とされていますが、これが大成功。翌81年の年末までに貸レコード店は全国で1000店近くに拡大と急速な発展を遂げていきます。貸レコードは他の国に文化として存在しないどころか、著作権違反で国際的に問題視もされました。だが、40年ほどの物価で2500〜2800円と、LPの値段が当時のコンサート料金と1000から2000円しか違わないほど高価だったことを考えると、貸レコード店の需要はいざ仕方ないところがありました。, そしてもう一つ発展したのがFMの存在でした。70年代までは、「洋楽に強い」といえば、ニッポン放送や文化放送、ラジオ関東といったAMのラジオ局で、FMは東名阪福の大都市圏にしかありませんでした。しかし、洋楽の発信地となっていたAMの深夜放送が、フォーク系の人気シンガーや当時の人気お笑いタレントによるトーク中心のものへと重心を移し、「音楽中心のメディア」としての求心力を失いつつあったところにウォークマン需要が出てきた。高音質のFMの方が番組を録音するにもカセットテープへの乗りも良いし、レス・トークなので話し手のしゃべりもかぶらない。そこでFMの音楽局としての需要が高まって行くことになり、ステーションの数も、80年代のうちに政令指定都市に拡大していきました。, FMはAMとの差別化を図るために洗練されたイメージを打ち出しました。それは1981年に創刊されたFM誌、FM ステーションが、山下達郎のアルバムのデザインも手がけた鈴木英人の鮮やかなイラストを表紙に使い部数を伸ばしたことにも象徴されています。また、「音楽により特化」したイメージを強調すべく、番組もAMに顕著になっていたバラエティ・トークではなく、アーティストに夜パーソナリティでも、自身のマニアックな音楽感性に忠実なものが目立ちました。その代表がNHK-FMの月〜金の午後9時の帯番組「サウンド・ストリート」で、山下達郎、坂本龍一、佐野元春が通な選曲で人気を集め、さらに評論家で唯一参加の渋谷陽一が硬派かつ歯に衣を着せない喋りでFM誌のベスト、ワーストDJの人気投票で共に上位にランクインする注目度の高さで知られてもいました。, カセットテープにFMは80年代の音楽を語る際に不可欠な存在ではありましたが、そこにさらに「テレビ」の存在がさらに勢いをかけます。その象徴とも言えたのが、1981年4月にテレビ朝日ではじまった「ベストヒットUSA」でした。YMOとも共演したラジオ番組「スネークマン・ショー」でスネークマンを演じていた小林克也の野太い美声による流暢で軽快な英語に乗ったアメリカン・スタイルのこの番組は、日本の洋楽番組のテンポを大きく変え、さらにアメリカの業界紙ラジオ&レコーズのチャートを、当時制作されはじめていたばかりのミュージック・ビデオの数々と共に紹介しました。, この番組のヒットにより、これまでAMで盛んだった「日本の洋楽チャート」ではなく、本場のヒットチャートへの一般の関心が高まり、さらに「洋楽を目で楽しむ」ことに好奇の目が注がれることになります。, そして「ベストヒットUSA」放送開始から4ヶ月後の81年8月、アメリカでMTVが開局します。「ミュージック・ビデオの番組が24時間見ることができる」という夢のような話は、ほどなくして洋楽ファンの耳にも届くようになり、1983年頃になると「一つの現象」としてメディアでも積極的に紹介されるようになり、日本での放送も待たれるようになります。, そういう期待感と共に、日本では多くのミュージック・ビデオの番組が制作されるようになります。代表的なものはテレビ神奈川の「ソニー・ミュージックTV」や「ビルボードTop40」、TBSの「ポッパーズMTV」でした。中でも「ビルボードTop40」は地方のUHF中心とした展開でありながらも30年以上、同一のVJ中村真理が届けギネスブックにも申請される長寿番組となり、ピーター・バラカンがVJをつとめた「ポッパーズ」は、この当時の日本の音楽番組にはなかった、本場欧米の音楽ジャーナリズムを持ち込んだ画期的な番組で、トム・ウェイツやヴァン・モリソンなどの批評価値の高いアーティストや当時注目を浴びつつあったワールド・ミュージックなども流されたものでした。, この時期はローカル規模でも日本各地に同種の番組が存在し、筆者の当時住んでいた福岡県でも、九州朝日放送の「ベスト〜」にRKB毎日での「ポッパーズ〜」、FBS福岡の「ナイトジャック福岡」、テレビ西日本の「スーパーチャンネル」と4局で見ることができました。そして84年には、テレビ朝日がMTVの番組の放送権を買い、一部で、かつ短期間ではありながらも、「MTV Top20 カウントダウン」などの看板番組を見ることができました。また、テレビ朝日のニュース番組「ニュースステーション」でも、80s半ばにビルボードの全米トップ5をその週のニュースの振り返りと共に紹介するコーナーが今曜日にあったほどです。, ジャンル関係なく、ゴチャ混ぜに洋楽が聴けた時代 80年代、洋楽ロックはショックなニュースから幕を開けました。9月にレッド・ツェッペリンがドラマー、ジョン・ボーナムの死によって解散、そして12月にはジョン・レノンが暗殺されこの世を去ってしまいます。60年代、70年代のロックを牽引してきたアイコンの喪失は、決定的なシーン全体の牽引者が結局出なかった80sのロック界の群雄割拠を示唆するかのようでもありました。, ただ、決定的な存在がいない分、いろんなアーティストがチャートにランクインし、「ベストヒットUSA」などを通じて雑多に楽しむ聞き方ができました。80年代初頭、洋楽のロックでの人気は、アメリカでは主にAORが強く(第7章参照)、イギリスではニュー・ウェイヴの時代(第8章参照)でした。, アメリカでは、従来のリゾート感覚的なブルー・アイド・ソウルの路線に、アメリカ版のプログレ系バンドだったジャーニーやスティクス、REOスピードワゴンが甘いバラード路線で接近します。彼らはこの時代のアメリカで最大規模のアリーナ・バンドになりましたが、パンク/ニュー・ウェイヴ派には仮想敵扱いもされ、渋谷陽一に「産業ロック」と命名されることにもなりました。一方、ブルー・アイド・ソウル路線だったダリル・ホール&ジョン・オーツはニュー・ウェイヴ感覚を取り入れたサウンド・メイキングで他のAORとの差別化に成功しシングル・ヒットを連発していくこととなります。, また、ブルース・スプリングスティーンやトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ボブ・シーガーといった、60sから70sのフォークロックの生き残りからアリーナ・アーティストに上り詰めたタイプの、アメリカで「ハートランド・ロック」と呼ばれるタイプのロックもこの当時は高い人気を博していました。そこにジョン・クーガー・メレンキャンプやヒューイ・ルイス&ザ・ニュース、ブライアン・アダムスなどがミリオンセラー・ヒットを飛ばし、アメリカのアリーナを揺らしました。こうしたアーティストの影響はこの当時の日本にも入ってきて、浜田省吾や佐野元春、尾崎豊などに反映されました。, イギリスでのニュー・ウェイヴ・ブームは前章第8章でも語りましたが、1981年から82年にかけてイギリス国内で起こったニュー・ウェイヴのアイドル的なブームは83年からMTVにも非常に好まれることになりアメリカに一気に進出。デュラン・デュランやカルチャー・クラブ、ワム!、ユーリズミックス、トンプソン・ツインズ、ビリー・アイドル、ティアーズ・フォー・フィアーズらがアメリカのチャートのトップ10を賑わせるようになり、日本でも当時、大きな人気を博します。また、日本ではそこまで大きなブームにはなりませんでしたが、アメリカではジョン・ヒューズの青春コメディ映画にもしばしフィーチャーされ、同国のニュー・ウェイヴの浸透にも貢献しました。, そして、ヘヴィ・メタルをこの時代のもうひとつの大きな勢力として加えるべきでしょう。ハードロック・バンド・アイドルのブーム(第6章参照)が落ち着いた頃、より男っぽい支持層を率い、メタルが台頭します。77年のパンクの勃興(第7章参照)以降、“旧勢力”のレッテルを貼られてしまった観もあったブリティッシュ・ハードロック勢でしたが、1980年、アイアン・メイデンのデビューの頃に起こった“ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル”(NWOBHM)の波に乗って息を吹き返します。これは、パンクの疾走感をハードロックのエネルギーに転化させた主に若いバンドによるムーヴメントで、この波に刺激され、ベテラン組も復活を果たした訳です。この動きは、当時イギリスに渡って直に生で体験した伊藤政則が日本に持ち帰り、放送や雑誌を通じ積極的に働きかけ、その波が広がっていきます。, ただ、日本の場合は、若手より“ディープ・パープル・ファミリーの復活”が優先された印象も強いです。それは76年のパープル解散後も、リッチー・ブラックモア率いるレインボーがそれを引き継ぐ型で日本での人気を持続させていたことが理由としてありますが、このパープルの元メンバーのデヴィッド・カヴァーデイルやジョン・ロードらの組んだホワイトスネイク、レインボーを脱退した人気の凄腕ドラマー、コージー・パウエルの加入したマイケル・シェンカー・グループ、元レインボーのヴォーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオの加入した新生ブラック・サバスといったパープル系人脈が相次いで全英トップ10アルバムを生み出した影響も大きいものでした。また、シン・リジーに一時加入したゲイリー・ムーアやマイケル・シェンカーなど、泣き節ギターがここでも人気を博します。, 同じ時期、アメリカでもメタル人気が出はじめますが、人気を牽引したのはむしろ、オーストラリアのAC/DCやサバスの元フロントマンのオジー・オズボーンなど、悪魔イメージを持ち、うねるリフに強みを持つアーティストでした。このあたりの好みの差は、後に日本とアメリカでのメタル・シーンの違いとしてハッキリ現れることにもなります。またジューダス・プリーストやモーターヘッドなど、黒レザーに身を包んだいかついバンドが、人気を博します。ただ、こうしたバンドが前述のパープル系統のバンドほど日本で人気があったかどうかは微妙なところではあり、とりわけAC/DCの欧米と日本での人気格差は後年、日本公演が82年の日本武道館公演以降、20年近く行われないなどの問題にも発展しました。, また、このブームに刺激され、国産のメタル・シーンも活気づき、ラウドネス、アースシェイカー、44マグナム、浜田麻里などが次々とデビューを飾っています。, そして、「イギリスのバンドがリード」している印象のあったメタルも、84年頃になるとボン・ジョヴィをはじめとしたアメリカの若手の台頭で風向きが変わっていくことにもなります。, また、ハードロックやプログレ、グラムといった旧世代でも、デヴィッド・ボウイ、クイーン、ZZトップ、ジェネシス(フィル・コリンズ)、スティーヴ・ウインウッドなどがうまく時代に対応し、ヒットも飛ばします。, こうした雑多なアーティストが「洋楽のチャート」という同じ土俵に乗ることで柔軟に聞かれた、そんな時代でした。, BIG3の時代と、外タレの日本のCM進出 ただ、このMTVのブームで最も影響力を持ったのは、結果的にマイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナの、当時”BIG3”とも呼ばれた3人でしょう。日本でもご多分に漏れず、この3人は大成功しました。, マイケルはアルバム『スリラー』で1983〜84年に37週全米1位という、今日まで破られていない大記録を打ち立てました。この当時は「黒人の誇り」を叫んだ60〜70sと異なり、黒人は社会で大成功するチャンスを得るも白人の流儀に従わないとそれが難しい「影のある洗練」の時代を迎えており、それはライオネル・リッチーやティナ・ターナーの成功にも言えていたことでした。その中でマイケルは、黒人のビデオを流さなかったMTVに門戸を開放させ、当時ナンバーワンのハードロック・ギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンと共演し、さらには当時の売れっ子映画監督ジョン・ランディスを迎えた短編映画風ビデオ「スリラー」で一斉を風靡しました。, プリンスは、当時黒人のあいだで主流だったエレクトリック・ファンクの流れを汲みつつ、黒人音楽界ではきわめて珍しいグラムロック風のユニセクシャルなヴィジュアル・イメージを打ち出し、加えてハードロッキンなギターや中東風のストリングス・アレンジなどミステリアスな要素の組み合わせで、当時の白人よりも先進的なロックを表現しました。彼のアルバムならびに主演映画『パープル・レイン』も1984年に一大現象となりました。, また、マドンナはシンディ・ローパーと共に、ニュー・ウェイヴを通過した「好きなように本音で生きる女の子像」をファッションや楽曲で表現し、1984年当時の世の女の子たちの強い共感を得ました。とりわけ欧米では、日本ほど女性のロッカーやシンガーソングライターへの理解が深かったわけではなかったためになおさらでした。マドンナは初のナンバーワン曲となった「ライク・ア・ヴァージン」以降、性や女性の生き方、さらには宗教の問題に踏み込むなど過激な主張で女性たちの強い共感を得ます。保守的な男性ロックファンは、ダンス・ポップ寄りの彼女のサウンドを非難もしましたが、彼女の主張は当時のほとんどの男性ロッカーよりも強烈でした。, 今から振り返るに、ここで黒人と女性がシーンの牽引者となったことが、その後のロックの退潮をも含む音楽シーンの勢力地図の決定的な変化を決めることとなったようにも思えます。, また、当時、マイケルやマドンナも実際にそうしていましたが、日本の茶の間に洋楽アーティストのCMが乗ることも多かった時代でした。デュラン・デュランやワム!といったニュー・ウェイヴのアイドルもシンディ・ローパーもボン・ジョヴィも日本のCMに登場しました。また、日立マクセルのカセット・テープは80s後半まで洋楽アーティストがCMキャラクターを担当し、ノエビア化粧品はこの頃から後年まで洋楽曲をイメージソングとして使い始めました。, 世界中に影響を与えたロック 1980年代半ばのロック主体のポップ・ミュージックの影響力は後にも先にも最強のものでした。ハリウッドでも『サタディ・ナイト・フィーバー』(77年)、『グリース』(78年)の成功を継承し、『フラッシュダンス』(83年)、『フットルース』(84年)、『ビバリーヒルズ・コップ』(85年)、『トップガン』(86年)と毎年のように映画からシングル・ヒットが連発されました。, また、この当時のMTVが、極力ワールドワイドな楽曲を紹介したいという以降が強かったために、英米以外のアーティストにかなり門戸が開かれた時代にもなりました。その戦略によって、アイルランドのU2や、オーストラリアのメン・アット・ワークやインエクセス、ドイツのネーナ、ノルウェーのa〜haといったアーティストたちが国際的スターとなりました。, そして、ロックは「社会正義」を押し進めるひとつの手段にさえなりました。反共軍事政権終焉後の南米や、共産主義崩壊直前のソ連や東欧ではロックが自由の象徴として愛され、これらの地で大規模なアーティスト出演のフェスティバルが相次ぎます。クイーンやAC/DCなどの国際的な人気はこの時期のこれらのフェスで築かれた部分も強いです。, また、イギリスでのバンドエイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」やUSAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」に見られるようにアフリカの飢餓問題を皮切りとしたチャリティ企画も相次ぎ、それは85年7月開催の「ライブエイド」で頂点に立ちました。ロックが国際ニュースのヘッドラインを飾ることさえ当時は珍しくありませんでした。, この当時の日本が、このように洋楽の盛り上がりを迎えたのは、一つにはポップ・ミュージックそのものが、世界で強い影響力を誇った、ということがあります。あの当時はロックスターでもパパラッチが追いかける対象となり、映画業界の方がむしろ音楽界のスターの力を借りて、映画のヒットを狙いに行っていた時代です。後にも先にも、こういうことはこの時代以外になかったような気がします。, また、社会的なことをいえば、この当時に東欧圏や、60年代のアメリカの行った反共政策で右翼独裁政権になっていた南米や韓国といった国々で自由化が始まり、欧米のポップ・ミュージックがこれらの国にとっての「自由の象徴」になっていた存在意義も見逃せません。, そして、日本にしてみれば、この80年代前半が、企業の国際進出かが加速した時期でもありました。日本の自動車会社がアメリカに進出し、同国の自動車産業を席巻したり、電化製品メーカーの国際進出も目立ちました。日本企業の視点がもっとも世界に向いていたのがこの時代だったように思います。, ただ、その代償も日本は負うことにもなります。日本車の人気で、フォードのようなアメリカの自動車の大手が打撃を受け、自動車産業の本場だったデトロイトで日本車が破壊されるイベントが起こったり、中国人が日本人と間違えられて殺害されるような事件が起こるなどのジャパン・バッシングが起きました。また、米国支社に進出した日本人の勤労倫理の違いや、文化的なことの不理解などで文化摩擦も起こっていました。この当時まだ、ロックを聞いてたような人は35歳以下だったことを考えると、戦前生まれの堅苦しい感じの日本人がそうした国際企業に行っていたことを想像すると、その摩擦の大きさも今から考えればわかるような気もします。, そして、これまで円安で国際貿易で得をしていた日本が、世界屈指の経済大国になってしまったことで80年代半ばについに円高が進行。これが企業の方向性を変えてしまい、外向きな空気を終わらせることになってしまいます。, それに伴い、せっかく外を向いていた日本の洋楽リスナーも、このブームの終わりとともに、徐々に外への関心が薄れていくことになります。実際、80sの記憶までで洋楽が終わってしまっている日本人も少なくありません。その一つの理由として、この当時の日本の洋楽リスナーの多くが、アメリカのチャートの上位に入ってこなかったような、イギリスやアメリカのインディのロックやヒップホップを体験し損ね、それらの音楽に対しての免疫を作り損ねてしまったことです。UKのロックなどは一部の雑誌メディアの力でマニアックにつなぐことはできましたが、他はチェック出来ていたとは言いがたく、それが洋楽における大きなシーンの変化についていけなくなる一因も作ったと言えるでしょう。, また、のちのKPopのことを考えると、日本企業が海外進出をするタイミングで、日本の音楽文化がまとまった計画性の元で進出できなかったことが悔やまれます。その中で1980年代初頭のピンクレディやYMO、80s半ばのラウドネスは全米チャートにランクインするなど、それなりの成果を見せることにはなりましたが、この頃にもっと、文化進出について国や音楽業界全体のレベルで考えられていたら、今日の状況はかなり違っていたのではとも思われます。, アイドル大全盛の裏で、次の動きに備えていた日本のシーン 一方、日本の音楽シーンがどうだったかというと、今振り返っても、洋楽には押されていたような気がします。第7章、第8章で書いたように、シティ・ポップやニュー・ウェイヴが時代のサウンドで、その影響でユーミンやサザン、山下達郎、YMOにRCサクセションの人気が高いものでしたが、それはある程度、意識的に音楽を聴く人にとっての話であり、世間一般の人気と知名度で言えば、この当時はアイドルがもっぱら強い時代です。, 1980年のたのきんブームでのジャニーズの時代到来と松田聖子の登場で、アイドルは新しい時代に入り、中森明菜や小泉今日子の「82年組」の登場でさらに活気づき、それが80年代の半ばまで続きました。この当時、「ザ・ベストテン」のような人気歌番組を見ても、上位を独占していたのはほとんどアイドルでした。これらアイドルはソングライター陣の充実した人たちに関しては今日も評価は低くないものの、グラビア重視で歌唱力を無視した傾向がこの当時は目立ち、粗製乱造の印象も残しています。, ロック系では、上記のアーティストを除くと、あとは放送媒体や雑誌媒体というよりも、コカコーラや資生堂、カネボウ、サントリーといった、CMソング起用のセンスのいい企業の代理店にヒットするための期待がかけられるという、他の国ではない現象もこの当時の日本にはよく見られました。一風堂や山下久美子、安全地帯のような当時のロック系アーティストのブレイクもそれが手助けとなってのものだったことは否定できません。, ただ、そんな1984年頃、自作曲派ではありませんでしたが、50sリバイバルのバンドのチェッカーズと、イギリスのニュー・ウェイヴ的なファッションとサウンドを展開した吉川晃司が“ロックのアイドル”として登場し、まだアイドルしか知らなかったような子供にバンドやロックのサウンドへの興味を誘導する役目を担いました。また、サザンオールスターズがニュー・ウェイヴに接近し、佐野元春がニューヨークで当時黎明期だったヒップホップの影響を受けた作品を発表するなど、日本のロックが新たな方向に動いて行くことも示唆されました。, そして、この当時の洋楽のMTVスターのような雰囲気を持ったバンドたちが日本の音楽シーンを席巻する日もそこまで来ていました。, 音楽ジャーナリスト。90年代にNHK-FMで番組を制作した後、99年よりフリー。2004年にインディ・ロック・マガジン「Hard To Explain」を立ち上げる。2010年よりサンパウロに移住。同年に洋楽・洋画・海外ドラマ専門ブログ「THE MAINSTREAM」をはじめる。.

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